典八は素直に喜びを表に出せない子供だった。
最愛の兄を前にしても、笑顔のひとつもみせず ただモジモジとしている。
残る唯一の肉親であり
海軍航空部隊のパイロットである兄・十郎(じゅうろう)は
この春、一時的に烏菜木航空基地に配置されており
その僅かな休暇を使っての来訪は突然のものだった。
十郎は父と妾との間に生まれた子で
十郎の十には「例え十人の子が生まれたとして、十番目」という
意味が込められており
生まれながらにして 不遇の扱いを受けることを強いられていた。
しかし現実は彼を不屈にし
田や畑を得られぬ境遇はその身を軍へと投じさせた。
典八が兄を前に「一緒に暮らしたい」という言葉を呑み込んだのは
いまだ幼いにも関わらず、それが叶わぬことを知ってのことなのか
この家で身に付けた「意思表示をしない」処世術からなのか
9歳の子供はただ、下を向いている。
十郎は習字の道具一式と自分の写真、地元神社で買った土産を手渡し
勉学に励むように と言い、去った。
土産は朱色の小筒で、開けると末吉と書かれたおみくじが入っており
典八はそれよりも容れ物である小筒を気に入った。
海軍ではこのとき既に
十郎含むパイロットたちの鹿児島への移動が決定していた。
ーーー
「あの杉にはな、神さまがいるんだ」
典八が世話になっている家には年上の男子がおり
事あるごとに辛く当たって来た。
今日、凛々しい出で立ちの十郎が姿を見せたことは
彼にとっておもしろくなかった。
典八がモジモジと喜ぶ様はかえって癇に障ったし
儀礼的挨拶とはいえ両親が妾の子に頭を下げることは屈辱だった。
「あそこに大切な人の写真を貼ってな、お祈りするとな
神さまが守ってくれるって 言い伝えがあんだ。
おめぇの兄ちゃんの写真貼ってこいよ、飛行機に敵のタマ当たんなくなるぞ」
典八は初めてともいえる この善意に面食らった。
しかしやがて、兄が姿を見せた効果なのだ、と納得した。
写真をしっかりと掴み 典八は家を飛び出した。
今ならまだ 陽のあるうちに一本杉へと辿り着けるだろう。
兄は自分を思ってくれている。
そのお返しが出来ると思った。