夕暮れ時。
いわしカレーの代金、その一月分の掛け金回収にやって来た たぬきは
杉に貼られた写真に気付き
「珍しいこともあるもんですねぇ」
と唸った。
「…」
勘定を済ませたリクサツは幹に背を預け 黙っている。
「…喰うんで?」
たぬきは視線を写真からリクサツへと流した。
「…ソりゃ喰ウさ」
「ふむ…」
たぬきは首をかしげた。
呪いの条件を満たし
これから人間を喰うことが出来るリクサツが
落ち込んだように黙っているのは不自然だった。
リクサツの気が落ちているのは
子供に拾われた札…『鬼の名札』が原因だ。
かつてこの土地を訪れた旅の坊主にやり込められ
バラ撒かれた、リクサツの名が記された札…その一枚。
他者に名前を知られることを禁忌とする鬼の一族にあって
それは決して存在を許せない名札であると同時に
自分が新しい名を得るべきときには有効に使える類でもあった。
つまり、自分を殺せる札であり、自分を生かす札でもあったのだ。
名札を一枚手元に置いていたリクサツの心情は理解出来る。
問題はそれが他人の手に渡ったことに他ならない。
リクサツは一本杉の呪いのチカラにより、
標的となる写真の主の居場所は感知出来た。
しかし、その呪いをかけた者のことは知る由もない…
「…毎日、来ルと言っタな」
リクサツはふと、少年の言葉を思い出した。
それが本当なら、まだ望みはある。
たぬきは帰り支度をしていた。
そして、なにやら考えごとをしているリクサツを横目に
人間を喰うんじゃ数日はいわしカレーが売れないかもな、
なんて思いながらケツをボリボリと掻きむしり
「まぁ、良かっ
良かったすねぇ、と言いかけた瞬間、その眼をカッと見開いた。
脳内に警告音が響いたのだ。
違う、良くはない。自分はなにか重要なことを見落としている…!
たぬきの脳細胞はフル回転し、果たしてその警告の意味を理解した。
その間、1秒にも満たない。野生の学(がく)が成せるものだった。
「いけませんぜ、旦那!」
たぬきは声を上げた。
「?」
「こりゃいけません、聞かせて下さい! この写真にまつわることを!」
『学のあるたぬき』の普段見せることのない勢いにリクサツは目を丸くし
気乗りしないながらも、
鬼の名札については若干にごしつつ 今日の出来事を説明した。
「なるほど…なるほど」
話を聞き終えた たぬきが頷いている。
「旦那…、この人間を喰っちゃあいけません」
「…?」
「どういうわけだか旦那を神さまと間違えて…ってのもありますが。
いいですかい、この写真…海軍の制服ですぜ
写真を貼ったという小僧のハナシからしても
戦闘機パイロットに間違いありません。
旦那、…日本を応援するって言ってたじゃあないですか。
ここで貴重なパイロットを喰うようじゃ、
応援どころか足を引っ張るようなもんですぜ」
「…」
「こうしちゃどうですかね、
その小僧は毎日お参りに来る、と言ったそうですね?
約束通りにお参りに来る間は、この軍人さんを取って喰うのは
保留にするってのは。
そのくらいのことがなけりゃあ、世に人情なんてありゃしません」
まくし立てるたぬきがあまりにウルサイので
リクサツはその捕食を保留することに同意した。
ーーー
たぬきは帰り道、ひとり胸をなでおろした。
「(あぶねぇ…踏み外すとこだ)」
リクサツが人間を喰うということは
その味を思い出すこと。
鬼本来の嗜好を呼び覚ますことは
ただの数日いわしカレーが売れなくなるだけはない、
今後いっさいの取引停止を招く可能性を秘めていた。
いわし業者とカレー業者に騙され
大量のいわしカレー在庫を抱える たぬきにとって
リクサツは商売の生命線であり、
決して失ってはならない客であった。
「旦那…頼むから人を喰ってくれるなよ」
たぬきは一本杉を振り返り 呟いた。
リクサツはその夜、写真の主「十郎」を襲いに行った。
たぬきとの約束をソッコーで破って。