神さまの名札 最終回

十郎が飛び立ち 二週間ほどが経った、その明け方。
リクサツはうなされて目を覚ました。

夢を見た。
どんな夢だったのかは覚えていない。
全身が汗でぬれており
余程恐ろしいものを見たに違いなかった。

東の空が微かに白み始める。

「……」

実感があった。
徐々に夢の内容も思い出してきた。
それは夢のようで、夢でなく。
一本杉の呪いがリクサツに見せる
写真の主が置かれている紛れない現実だった。

杉のてっぺんまで登り
南方を眺める。
風に流された雲が 淡い陽を受け輝いている。
美しいと思った。
その遥か向こうで繰り広げられているものが信じられなかった。

リクサツは残された人間のことを思う。

 

この日、典八の兄・十郎は
爆弾を抱えた戦闘機を操り
敵艦めがけて体当たりを行い、戦死した。

ーーー

典八は変わらず、一本杉詣でを続けていた。
山菜を持ち帰ることで家での扱いが多少変わったようで
笑顔になることが多くなっていた。

たぬきは
「あの小僧、もう山菜目当てですぜ」
と笑ったが、典八は欠かさずお祈りを捧げていた。

「神さま、兄ちゃんの飛行機に敵のタマが当たらないようにしてください」

今日という日、それはリクサツの胸に刺さった。

数日後か 数週間後か あるいは数ヶ月後か。
この少年の元へ 兄の死亡告知書が届くだろう。
そのときのことを思うと、恐ろしかった。

(…オマエの神サマは無能だナ
願イのヒトツも叶えテやれナかっタゾ)

お辞儀をし帰っていく典八を直視出来ず
リクサツは背を向けた。

 

そのころ
神奈川の軍事施設を目標とし
サイパンから爆撃部隊が離陸した。

ーーー

米軍航空爆撃部隊の指揮官は 風に流されたことに気付いた。
編隊は目的地から逸れたルートを飛行している。
神奈川へは行けない。よって代わる手近な攻撃目標を探し始めた。

圧倒的な性能を誇るこの軍の爆撃機にとって
往復 5,000キロの道のりを爆弾を積んだまま帰ることは容易かったが
爆弾を落とさないで帰る理由の方が無かった。

烏菜木町空襲は運命の悪戯により始まった。
あるいは、軍事施設を持つ町が焼かれるのは必然だったのだろうか。
後世、ある者は民間人への許しがたい攻撃だったという。
またある者は戦争を始めた日本が受ける当然の報復 そのひとつだったという。

 

夜空に空襲警報が鳴り響く。
一本杉のもとへ たぬきがすっ飛んで来た。
そして開口一番
「旦那、逃げましょう!」
と叫んだ。

「こんな時間に、こんな数で来るなんておかしいです、
機銃を撃ち込まれるだけじゃすみませんぜ、
一応の狙いは海軍基地でしょうが…
ここだってどうなるか分かりません、
もっと町から離れましょう」

警報に航空機の出す爆音が混じり始め
やがてそれは爆発音に取って代わられた。
大気が震えるのが伝わってきた。

「海軍キ地…!」

リクサツは目を見開いた。
典八の住む家はそこから遠くない。
次の瞬間、走り出していた。

「だ、旦那!? 違いますよ!
町から離れるんです! ああもう!」

たぬきはリクサツを止めようと、全速力で後を追い
やっとでその背中にしがみついた。

「あの小僧なら大丈夫ですよ、
警報も鳴ったんだ、避難してますって、戻りましょう!」

「…おマエは戻レ!」
リクサツは足を緩めることなく走った。

たぬきはしばし沈黙し
「なんでこっちの戦闘機が出ていかねぇんだ」
と爆撃機の舞う空を見上げた。

烏菜木基地が保有する航空機で飛べるものは僅かだった。
主な理由は燃料不足であり、その次にパイロット不足。整備不足と続いた。
さらに単純な話、爆撃を受けている最中に戦闘機が飛び立つことは出来なかった。

町が近付き 木や鉄、そして肉の焼けるニオイがした。

「なんだ、ありゃあ…」

たぬきは火の雨を見た。
爆撃機から投下された焼夷弾は
空中で無数に分裂し 地表に落下
つかの間の静寂のあと 弾けるように飛び跳ね
瞬く間に周囲を火の海にした。

たぬきはリクサツの背から飛び退き
「もう知りませんぜ!」
そう言い残し 来た道を全力で戻り始めた。

リクサツは典八の住む家のあった場所へと辿り着いた。
そこはもはや家でなく、爆風により瓦礫の山と化し
既に火の手が回り始めていた。

「…」

避難したはずだ。そう願った。
そして
折り重なった柱の下から か細いうめき声を聞いた瞬間
「!!」
リクサツは怪力を発揮した。
周囲のことなど構わず 柱を持ち上げてはそれを跳ね除けた。
最後の柱を持ち上げ、典八の姿を確認したそのとき

直上から焼夷弾の雨が降り掛かった。

鬼の声が耳に届く人外のものたちは
爆音やサイレンをも切り裂くそれを 山中で聞いた。

あれは人間の火に焼かれる苦しみから鬼が悲鳴を上げたのだ
あれは怒りに昂ぶった鬼が雄叫びを上げたのだ

リクサツは絶叫した。

ーーー

 

凄惨な夜が明けた。

一本杉には朝日が射し込み
その根元には少年が寝かされている。

リクサツはたぬきが汲んできた水に木の葉を浸し
少年の火傷した肌へと貼り付けていたが
「…」
もはや助からないであろうことは見て取れた。

「この小僧の家の人間は無事です
避難したのに、こいつだけ…戻っちまったようです
…あと、自分の傷も手当してくださいよ」

町の様子を見てきた たぬきが戻り
駆け寄って来ると くすねて来た干し芋をバラバラと置いた。

リクサツは自身の肩口に手を置く。
激痛に思わず顔が歪む。
その直撃で鬼の肉体をえぐり 焼いた焼夷弾は
いまは足元に転がり 不気味に燻っている。

「…おい、食いもんだぞ」
たぬきが声を掛ける。
人間には獣の鳴き声としか届かない。

「う…」

反応し目を覚ました典八は
虚ろな目でたぬきを確認し、微かに微笑む。
そして次に 姿なき鬼・リクサツを見つめた。
空を見ているつもりで、焦点が合わないのだろうとリクサツは思った。

「…かみさ…ま」

「!?」
リクサツとたぬきは驚き顔を見合わせた。
姿なき鬼が…見えるのだろうか。

「…これ…燃えないで…すみました、ちゃんと…ここに…」

やっとの力で右手を上げる。
「…兄ちゃん…のこと」
「!」
リクサツがその小さな手を
両の手のひらで包んだとき
典八は力尽きた。

手には朱色の小筒が握られていた。

小筒を開けると中には二枚の札が入っていた。
一枚はリクサツの『鬼の名札』。
もう一枚は 典八が兄から授かった習字の道具で模写したもの。

「…そいつを…取りに戻っちまったのか」
たぬきは干し芋をかじる手を止めた。

リクサツは典八の遺体を
山の人通りのある場所に横たえた。
すぐに人間にみつかるようにと。

ーーー

数日の後。
一本杉のもと。

たぬきが穴を掘っている。
やがて手を止め
「ふぅ…ま、こんなもんでどうでしょ」
と姿なき鬼の方を向いた。

鬼は頷くと
札を一枚…辿々しい字で書かれたもの…を朱色の小筒に入れ
凛々しい青年の写った写真と共にその穴の底へとそっと置いた。

「んじゃ、埋めます」
たぬきは土を被せ始めた。

(…旦那、)
作業しながら
たぬきは言葉を飲み込んだ。

(あの小僧に…旦那の姿が見えたってのは)
(力尽きる間際、見えないものが見える力を得たか…)
(…いやそんな都合の良いことはありゃしません)
(……)
(『姿なき鬼』…)
(かつて人間たちから『居ないもの』として扱われ)
(心を閉ざし 姿まで失ったあなたが…)
(人間に心を開いたんです)
(だから、あの小僧の目に…)

たぬきは知らぬうちに泣いていた。

(あの瞬間、きっと)
(誰の目にも旦那の姿は映ったはずだ)
(…この一本杉の呪いからも)
(きっと逃れることが出来たんです)

土に大粒の涙が零れ落ち
シミとなって模様を付ける

(あっしは祈ります…いつの日か)
(再びあなたの閉じた心に触れる人間が)
(現れることを…)

たぬきは顔を拭うと
ポンポンと土を叩いた。

「終わりやした」

 

姿なき鬼・リクサツは
自身の名が記された札を取り出すと
それを破り捨てた。

「…一枚アれば…十分ダカらナ」

ちりぢりになった紙切れは
風に乗り 舞い上がると
青空へと溶けて行った。

 

8年後。1953年。和暦 昭和28年。
講和条約が発効し連合軍による占領が終わった翌年。
烏菜木町は近隣村との合併を果たし、烏菜木市が誕生する。

 

『神さまの名札』 完